手段としてのミニマリズム、目的としてのミニマリズム
ミニマリストの方のブログを読んでいて、自分と同じミニマリストであるにもかかわらず違和感を感じることってありませんか?
一概にミニマリストと言っても、例えば節約系ミニマリストやシンプルライフ系、極限系など色々なタイプがあることがその理由かなと思ったのですが、そう簡単でもないのではと感じ、考察したことを記事にしました。
そもそもミニマリストとは少ないモノで生活するライフスタイルの総称であり、それを志向した理由や背景は多様です。
ミニマリストになった理由や背景が様々なので、結果として、各々の価値基準・判断基準も異なってきます。
手段としてのミニマリズム
ミニマリストになることでの代表的なメリットは以下のようなものが挙げられています。
- ノイズが減り、他の事に気を取られなくなる。
- モノを探す時間が減る。掃除の時間が減る。
- モノを買わなくなることで、節約になる。
これらのメリットは、すべて「自分が本当に大切なことに集中できる」ということにつながります。
言い換えると、「自分が本当に大切なことに集中するために、不要なものをそぎ落とすこと」がミニマリズムであり、自分の価値基準・判断基準に照らして、合理的かどうかで「不要なもの」が決めることになります。
それでは、ミニマリスト=合理主義者でしょうか?個人的には、ミニマリズムと合理主義は、親和性が高いと考えています。
例えば、将来のセミリタイヤを目指して節約に励むミニマリストにとって極力お金を使わずに生活することは合理的でしょうし、世界を旅するバックパッカーにとって荷物の最小化は移動を楽にするという点で合理的でしょう。仕事に没頭してるミニマリストにとっては家事の時短につながるルンバや食洗器を持つことは、合理的な選択となります。
このような考え方や価値基準は、自分が本当に大切なことに集中するためのミニマリズム、つまり手段としてミニマリズムであると言えるます。
目的としてのミニマリズム
一方で、ミニマリストのライフスタイルについて全てを合理主義だけでは説明できないと考えています。
例えば、収納スペースがあるにも関わらず服や下着を3セットしか持たないとか、家具家電を無印良品で統一するとかは、毎日洗濯するから3セットで十分とか、整った部屋はノイズが減るとか理由はあるにせよ、本当に大切なことに集中する手段としては合理的とは思えないため、説得力に欠けます。
ぼく自身がミニマリストの方のブログを読んで感じる違和感の背景には、この論理破綻にあるのではないかと考えており、他の読者の方も、同様に感じているかもしれません。
一方で、そもそもライフスタイルや趣味、嗜好にとって、合理性は必要条件ではありません。
なので、合理性だけでは説明困難な場合は、無理矢理に合理性を謳うのではなく、「だって好きだから」と割り切ってしまう方が納得感があると考えています。
目的としてのミニマリズムであってもいいのではないでしょうか?
ちなみにぼく自身がミニマリストになったきっかけは、モノを捨てることに罪悪感を感じてしまい、モノが捨てられなかったからです。
そこで、自分がほんとうに気に入ったモノだけを買うようにして、徐々に無駄なモノを省くことでミニマリストになりました。
ミニマリストでありながら「モノは大切に」という価値感も持っているため、時としてミニマリスト的ではない行動を取っていると自覚しています。例えばDIYやメンテナンス道具を持っていて、モノを大切に使っています。
なので、極限系ミニマリストの方が「不要だと思ったものは断捨離して、もし必要だったら買い直せばいい」的な考え方には、ミニマリスト的には合理的だとは思うものの、共感はできません。
人によっては、このような考えを持つことをミニマリストではないと考えるかもしれませんが、「DIYやメンテナンスが趣味のミニマリスト」と言えば受け入れられやすいものと考えています。
最後に
今回は取り留めのない長文となってしまいましたが、自分の頭を整理するためにも記事にしました。
他のミニマリストの方を批判する意図はありませんので、寛容に読んでいただけるとうれしいです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。